Buon giorno (ボンジョルノ) どうも、編集長の【あるでんて】です。
そんな疑問に答えていきます。
三つ子の魂百まで、上品なる事は難しい
これが、編集長【あるでんて】の結論です。
品格とは、人間の内面から出るものであり、服装でカバーできるものではありません。
服装よりも、何気ない所作や雰囲気に、品格が出てしまうからです。
そう思った読者の方もいると思います。
実際に、【品を身に着けよう】などと謳った、講座や書籍も販売されていますが、私は難しいと考えています。
では、なぜ品を身に着けるのは、難しいのでしょうか?
なぜ品を身に着ける事が難しいのか?
品を身に着けるのが難しい理由は、2つです。
作られた作法
フランスの俳優アランドロンをご存じでしょうか?
アランドロンは、セレブであり大スターです。
VAISSIER FILM LA PISCINE 158×118 GAILLARD 0050031916-67 A+ €1950” by estampemoderne.fr is licensed under CC BY-ND 2.0.
華やかなパーティーなどの経験も多く、社交の席が多いので、マナーはしっかり学んでいると思います。
服装に関しては、確実に良い仕立ての洋服または、ブランド品を着ています。
しかし作家の【塩野七生】さんは、このように語っています。
アラン・ドロンは美男である。
(中略)
気品とか品格とかいうものとは無縁の、美男なのだ。
(中略)
アラン・ドロンの食事のシーンは、相当に豪華な家の食堂で食べるシーンだった。
それも、一人ではない。
何人かの人との会食である。
ここで、アラン・ドロンのボロが出てしまったのだ。
テーブルマナーが、まちがっていたわけではない。
椅子にかけた背もまっすぐ伸びていたし、食卓にひじをついていたわけでもなかった。
ナイフもフォークもスプーンも、使い方に誤りがあったわけではない。
ガチャガチャと、下品な音をたてて使ってもいなかった。
葡萄酒のグラスにくちびるをふれる前に、ナプキンで口許をふくことだって知っていた。
口の中を食物でいっぱいにしたままでおしゃべりに熱中するという、許しがたい行為をしたわけでもない。
つまりアラン・ドロンは、食卓のマナーというならば、なにひとつまちがいを犯さなかったのである。
それでいて、印象は不自然だった。
なぜかと考えた末、私はこんな結論に達した。
彼は、いわゆるテーブルマナーとされることを、あまりにもきちんと守りすぎたのだ。
守るのは当たり前なのだが、それがきちんとしすぎだったのである。
なにか、急に教えられたことをすぐさま実行するようなところが、彼のマナーにはあった。
成りあがり者が、教則本どおりに懸命に上品に振舞っているようで、見ているほうが息がつまってしまったのである。
犬のまねを懸命にする狼は、犬でもなければ狼でもない。
飾りたてられた食卓にすわるアラン・ドロンは、なにものでもなくなっていたのである。
なにものでもない者が、魅力をもてるはずはない。
あのシーンでのアラン・ドロンには、卑しい魅力さえなくなっていたのである。
引用元:男たちへ(塩野七海)
世の中には、似て非なる物があります。
例えば、人工ダイヤは、ダイアモンドのような物ですが、ダイアモンドではありません。
同じように作法を学んでも、品がある様に見えるが、品があるわけではない、という構造になってしまうのです。
【高い洋服=素敵】ではない
岡田斗司夫さんは、このように語っています。
途中で、【育ちが違う】という言葉が入っていますが、(育ち=価値観)という事をインタビュアー側は、感じたのだと思います。
人の所作といっても食事のマナーだけでなく、根本的な考え方からくる所作に、人間の価値観が表れます。
哲学者のショーペンハウアーは、下記のような事を語っています。
金銭を扱うのになれた物持ちの主婦は、よくわきまえて消費する。
ところが、結婚してはじめて財産を自由にできるようになった主婦は、支出に絶大な興味を覚え、たいへん無駄使いをするようになる。
引用元:ショーペンハウアー,孤独と人生,白水社,
何を買ってどのように使うのか?その行動は、価値観が決定しています。
そういった日々の行動から醸し出される雰囲気も、品という曖昧な定義のオーラを放つのかもしれません。
ファッションで品は身につかない(まとめ)
イギリス紳士などと言って、イギリスのサヴィルローで仕立てた服を着ても、本人に品格がなければ、本当の紳士にはなれません。
高級なイギリススーツを着ているので、それなりの人には見えると思います。
品格のない人は、何を身に着けても品格はでないし、品格とは、内面からでるもので身に着けようとして身につくものではない
逆に品格を持つ人は、ZARA、UNIQLO、H&Mを着ても、品があるのではないでしょうか?
マナーや所作は学んで直す事はできますが、品格は別もの?という事なのかもしれません。
みなさんも、イタリア男のような、お洒落な日本人を目指していきましょう。
それでは、また Ciao(チャオ)